原研哉の言葉

 原研哉は日本のデザイナー。VIや本の装丁などのグラフィックデザインから、プロダクトデザインまで幅広く活躍し、近年では深澤直人とともに無印良品に関わっています。また、変わったところだと長野冬季オリンピックの開会式、閉会式のプログラム、愛知万博のプロモーションなども手がけています。
 そんな幅広く活躍する彼の言葉を見かけたのでメモ。ちょっと長いけど、なるほどと思わされるんだよなぁ。

 日本には優れた美的センスとそれを尊重する雰囲気があるように思えますが、これはなぜでしょうか? 日本人は美的な要素や体験を他の国の人々より重視するのでしょうか?


 海外に出かけて、東京に帰ってきていつも思うのは、空港は野暮だが、隅々までよく掃除が行き届いてきれいだということ。床のタイルは寝転がっても服が汚れないほどピカピカだし、カーペットも丁寧に掃除されている。これは掃除人が義務としてやっているだけではない。ある美意識がそこに働いている。掃除人は自分の仕事を丁寧に完遂することに満足感を覚えているはずだ。道路工事をする人も、電気工事をする人も、料理をする人も同様だ。欧米にも、職人気質というものはあると思うが、それは一定以上の技術と精神性に対して発動されているように思われる。しかし日本の場合は、ごく普通の掃除や調理にも当てはまる。「緻密」「繊細」「丁寧」「簡潔」と、私はよく言っているが、そういう美意識が普通の人々にスタンダードに備わっている。弁当を作るにも精一杯それを美しく行なおうとする心理も同じものだと思う。
 ただ、日本人は「美に聡く、醜さに疎い」といわれるように、意識を向けた先には細心の注意を払うが、個人の美意識では把捉できない巨大な醜さを見逃し放置する傾向がある。だから、都市は混沌とし、醜い建築や看板が街に横溢しても、見て見ぬふりをしている。だから、美しい弁当を殺風景なオフィスの会議室や、猥雑な街頭のベンチなどで広げて食べているのも日本の特徴的な光景と言えるだろう。


 日本では(意匠的に)良いデザインのプロダクトというのはごく一般的なのでしょうか?
 日本人は一般的に簡素を好む。日本の簡素さは西洋のシンプルとは異なる。近代の到来から300年ほど前に、日本は独自の簡素さを旨とする美を発見し、身につけてきた。


 二つの調理用の包丁をご覧いただきたい。一つはドイツのヘンケル製。人間工学的によく出来ていて大変使いやすい。これが西洋流のシンプル。握ると自然に親指の位置も決まる。しかし、超絶技術を持つ日本料理の板前はグリップに凹凸のない包丁を使う。平板な把手は貧しさや未成熟ではない。むしろその逆である。どこを持ってもよいという完全なプレーンさが、板前のあらゆる技術を受け入れる豊かさになる。これが日本流の簡素さだ。


 簡素でありながらもそれが貧しさにはならず、むしろゴージャスさを凌駕する美につながる。そういう美意識が日本人の感覚の奥底に眠っている。それが日本の建築やハイテク技術、そして無印良品などのミニマルなプロダクツの背景をなすものだ。弁当も、決して凝りすぎてはいけない。旬の素材を簡単に調理し、手早く美しく作る点が肝要である。


http://informationarchitects.jp/kenya-hara-on-japanese-aesthetics/