阪神・淡路大震災記録

<過去に書いた文章を記録として残します>


 もう12年も前の話ですが、阪神淡路大震災でボランティア活動を行いました。体験記を書くにあたり、まず、当時の状況から簡単に説明をさせてもらいます。
 私が初めて神戸入りしたのは、震災から一ヶ月後の2月中旬です。当時の神戸は、被災者が避難所に集まり始め、いくつかの大規模なコミュニティを形成している状態でした。全国からの救援物資も多く集まり、避難所での生活は徐々に過ごしやすくなっていました。私のいた三宮の小学校では、自衛隊が駐屯し二日おきですが野営風呂に入ることもできたくらいです。その一方で、ライフラインが断たれたために高齢者は避難することができずに、半壊の家に住み続ける状態が各地に点在している状態でもありました。ですから、それらの被災者たちをどのように大きな避難所に集めるのかということが急務となっていました。また、崩れた家の撤去作業も着々と進むにつれ死者の数も1000人を越え、一体どこまで犠牲者は増えるのかと、皆が成り行きを見守っている時期でもありました。被災者からすると最低限の衣食住は保障されても、先の見えない不安に満ちた生活でした。
 ボランティアの面から眺めると、ようやくシステマティックに活動が行われ始めた時期だったように思われます。震災直後に神戸入りしたボランティアは、まず必要だと思われる炊き出しや配給をしながら、状況を把握するために東奔西走する毎日で、およそ指揮系統は確立されていなかったそうです。ただ、そういった人たちの活動によりボランティアの指針が示され、一ヶ月後には各団体の活動方法が確立されたのです。多くの団体は連絡を密にし、目の行き届かない範囲を補佐し合っていました。そして、一週間を一つのサイクルとして多くのボランティアが全国から派遣されました。
 そのような時期に私は神戸で活動を行いました。年齢は16歳。まだ高校一年生でした。使命感に突き動かされ現地へ行ったものの、何をできるような歳でもありません。自らの無力さと過酷な現実に翻弄される日々でした。
 一つ、断っておかなければならないことがあります。実は、今でも阪神淡路大震災の復興ボランティアで体験した事柄は、私の中で整理がついていません。それだけ大きな経験であり、これから先の数十年をかけて、自分の中での評価が定まる問題だと考えています。つまり、私はあの震災をこうだったと断定できる立場にはありません。どのように記すべきなのかを悩みましたが、被災者から私にかけられた三つの言葉を紹介しようと思います。


 まず、最初に神戸入りした時の話です。私は高校一年生の春休みを利用して、ボランティア活動をしに神戸へ行ってみようと思い立ちました。東京駅で父に見送られ、新大阪駅まで新幹線、あとは在来線を乗りつぎ避難所のある東灘区の最寄り駅まで行きました。
 恥ずかしい話ですが、神戸の在来線から見える町並みを見て、私は興奮しました。「テレビで見ていたとおりだ!」そのように感じた記憶があります。車窓から見える家々は、転々とブルーシートがかけられ、震災で倒壊したことをはっきりと示していました。それを見て、私は本当に被災地に来て、これから人助けをするのだと実感しました。一人よがりのヒロイズムに満たされていました。
 しかし、列車が進むにつれブルーシートの数は増え、駅に到着した時にはほとんどの家が崩れさり高速道路すらも横倒しになっていました。自分の想像を容易に越えた現実に、私は打ちのめされました。涙すら出ました。
 なんて軽い気持ちで自分は来てしまったのか。死者は何人くらい出たのだろう。この家に住んでいた人たちはどうなってしまったのだろう。家がこんな状態で人が生きていられるわけがないのではないか。
 そんな当たり前のことを、テレビの前の自分は気がついていませんでした。駅前には半壊した家から家財道具を取り出している人や、倒壊してしまった自宅を呆然と見つめている人がいました。また、電柱は思い思いに傾いたり曲がったり、道すらも飴細工のように波打っていました。それらをすり抜けて、私は避難所である小学校へ向かったのです。
 避難所に着いた私は、ボランティア代表の方に校内を案内してもらいました。教室を回り、被災者の方々にも挨拶をしました。その際にかけられた言葉があります。
「所詮、ボランティアは震災を経験していないだろ。私達の気持ちは君たちには分からない。また、頼んで来てもらっているわけでもない。自分の気の済むようにやって東京に帰りなさい。」
 助けてやるのだと意気込んでいた私の考えを、見透かされたような発言でした。この言葉から私のボランティア活動は始まりました。


 ボランティア活動を始めて数日が過ぎ、自分のできる仕事は何かということが分かりました。朝と夜は全国から避難所に届いた弁当や飲料水を被災者に配り、昼は自分よりも年下の子どもたちと遊ぶことです。
 小学校には多くの子どもたちがいました。その中にボランティアを困らせる、タカシという小学校高学年の男の子がいました。タカシは同年代の子どもたちからも嫌われていました。理由は他人の嫌がることをするからでした。たとえばボールを取るように頼むと逆方向に放るのです。
 皆が持て余すなかで、私は悪いことをした時には捕まえて叱るようにしていました。理由を聞いて、そういうことはしてはいけないと話をすることにしたのです。また、一人で外れたところにいる時には声をかけるようにしました。そうこうしているうちに、私はタカシと仲良くなり、自宅に呼ばれることになりました。タカシの家は倒壊を免れ、昼間だけ学校へ遊びに来ていたのです。
 彼の家で茶をご馳走になり、ふと不思議に思いタカシに聞いてみました。
「なんで、家に呼んでくれたの?」
 するとタカシはこう言いました。
「お兄ちゃんは俺が悪いことをすれば叱ってくれた。他のボランティアは見ているだけだ。あいつらは俺が被災者だからってだけの理由で、同じ人間だと思っていないんだ。」
 彼は続けました。
「この部屋で姉ちゃんは本棚の下敷きになって死んだんだ。俺はずっと姉ちゃんが死ぬまで、何もできずに見ていた。持ち上げようとしても持ち上がらないんだ。あいつらはそれを知っているから、俺に対して腫れ物に触るような扱いをする。この部屋に姉ちゃんはずっといるんだ。俺にとって大切な場所だから、他のやつらは絶対につれてこない。」
 また、明日ね、とタカシを別れ、避難所に戻る私は複雑でした。自分の知らないような悲惨な体験をして、傷ついている人間に「助けてやる」などというのはおこがましいのではないか。また、同じ人間なのに特別な扱いをするのは、相手を傷つけてしまうこともあるのではないか。では、どのように自分は相対するべきなのだろうか。
 私はこの時にようやく被災者の人たちの辛さが分かり始めたような気がしました。

 
 2月に神戸入りした私は、一週間の活動を終え東京へ帰りました。そして、さらに一ヶ月後の3月に再度神戸入りしました。
 その頃は仮設住宅も設置されはじめ、配給も減り、避難所からも人がいなくなりつつありました。私は子どもたちと遊ぶ日々を過ごし、ボランティアという意識は薄れていました。事実、神戸で活動を続けていた多数のボランティア団体は撤退を始め、神戸全体を復興へ向けた少し前向きな空気が覆いつつありました。
 ある朝、目が覚めてロビーへ行くと、多くの人たちがテレビに釘付けになっていました。大変なことが起きたことは、起き抜けの私にも容易に想像できました。輪に加わり息を呑みました。それは、東京での地下鉄サリン事件の報道でした。
 皆さんご存知のとおり、日本で化学兵器が使用された初のテロ事件で、一般市民の多くが犠牲となりました。テレビでは朝から各局が盛んに惨状を映し出していました。皆が画面を見守る中、被災者の1人が言いました。
「せいぜい10人くらいの死者で、何を言っているんだ。こっちはすでに死者は2000人を越えているし、今でも日に日に増えている。でも、すっかりテレビでは報道しないじゃないか。まだ復興にはほど遠いのに、あいつらはもう忘れてやがるんだ。」
 結局、私がボランティア活動を終える瞬間まで、この言葉は耳に残りました。復興へ向けて町は動き始めても、人の心は傷ついたままです。自分は彼らに何かをしてあげられたのだろうか。そのような疑念を払拭できぬまま、私のボランティア活動は終わりを迎えました。


 以上、三つだけですが私の体験の一部です。神戸では他にも多くの経験をしましたが、今でも私の課題となっている事柄は大きく分けて三つあります。

  • ボランティアは人に感謝されるとは限らない。ならば、人助けであるはずのボランティア活動は何のために行うのか。
  • 障害者や高齢者などの社会的な弱者は、自分よりも多くの体験をしているし、尊敬すべき対象である。優しく介護するだけでは自尊心を傷つけてしまうのではないか。では、彼らへのボランティア活動は、どのような心構えで接し実践するべきなのか。
  • 人の命はどれも等しく尊いものである。死者の数や発生時期で優先順位をつけて良いものなのか。また、世間で関心を持たれなくなっても苦しんでいる人はいる。自分はどうするべきなのか。


 実は、高校時代にも○○先生から同級生に読ませるための体験記を書くように頼まれたことがあります。その際に、私はこう言って断りました。
「話なんか出来ない。みんなが行って、実際に体験すればいいんだ!!」
 ボランティアから帰って来た当時の私は、自分の体験を語る術を持ちませんでした。また、自分が何かしなければもっと多くの人が死んでしまうという強迫観念に取り憑かれていました。今はあれから10年以上が過ぎ、冷静に当時を思い返すことができるようになりました。しかし、まだ評価は定まりませんし、課題への答えは容易には出せません。
 しかし、一つだけ断言できることがあります。自分から働きかけないと世の中は何も変わりません。私は自ら課した課題への答えを見つけるためには、思考を停止させずに感受性豊かに、悩みながらも多くの活動をすることが大切だと思っています。


 答えの一つとして、私は4月から教師になることを決めました。少なくとも、自分の目の届く範囲の人たちの助けになりたいと思います。また、タカシのような子どもたちの近くに立ちつづける人間でありたいと考えています。
 最後まで読んでくれた皆さんも、これから大いに悩み、自分は世界にどのように関わっていくことができるのかを考えながら日々を過ごして下さい。皆さんが岐路に立った時に、私の体験談が少しでも手助けになれば幸いです。